先日、ある新聞社から御朱印に関しての取材を受けました。
「手書きの御朱印が珍しいので…」
という事でいらっしゃったようです。
この切り口での取材では非常に困ります。誤解を与えてしまいます。手書きに価値があるかのように掲載されるような取材では困るわけです。
「なぜ手書きで御朱印を書いているんですか?」
例えば、私がこう答えたとします。
「心を込めて…」
「ひとつひとつ丁寧に…」
とか答えたとします。それならば、書き置きや印刷にはその様な思いは込められていないのかという事になってしまいます。気持ちは御朱印の受け取り手で様々です。そのような事を私の口から言ってしまったら大きな誤解を与えてしまいます。
御朱印に関しての考え方は以前書いたことがあります。
御朱印はあくまでも参拝の証しだと思っています。ただ、ここ最近は御朱印の要望が多く、対応に苦慮している神職さんも多いと思います。その中で、書き置きや印刷や切り絵などの御朱印が増えてきたのも事実です。それはそれで良いと思っています。全く否定しません。多くの参拝者の御朱印対応を御祈祷などの社務をこなしながら行うのは困難です。そこでの判断が印刷であったり書き置きであったり、私みたいにお待ちいただくかと言う事なんだと思っています。誤解の無いように書いておきますが、私の神社も書き置きはやっています。忙しくてどうしようもない時があります。例大祭の日なんて無理です。お正月は今でも頑張って書いています。ただ、それに価値があるなんて思っていません。宮司の方針とだけ言っておけば十分じゃないでしょうか?
私の考え方としては、神社はアナログ的なものだと思っていますので、こんなシーンは↓続けていきたいと思っているだけなんですよね。
ただそれだけなんです。
そんな時、たまにふと発生する参拝の皆さんとの会話に喜びを感じるときもあるんですよね。
で、取材中にトラブルになりました。興味本位で聞いてくるのは分かりますが活字になると伝わらないことが多くあります。質問には丁寧に答えたつもりですが、その場だからという答えもあるので、その場合はここは載せないで下さいねと前置きして話しをしていました。
で、こうなりました。
「ここもダメ、ここも答えようがないでは記事になりません」
だから私もこうなるわけです。
「あくまで私が答える側ののインタビューなので答えられないものについては了承しましたって言ってくれれば良いじゃないですか?」
「あなた方の視点で記事にされることで読む人によっては誤解を与えてしまう事だってあるんです。だったら私は別に記事にして頂かなくても結構です。」
記事は一般の方々はもちろん神職さんだって読みますからね。
その後、なぜそのような質問には答えられないかというのを時間をかけて記者さんに説明しました。過去にあった出来事や神職同士の繋がりなどを含めてね。そうしたらご理解頂けたようで相互理解で取材を終えることが出来ました。いや、出来たと思っています。なぜなら現時点でまだ掲載されていないので。
そんな記事がそのうち掲載されるでしょう。ご理解頂いた記者の方、有り難う御座いました。
この記事へのコメントはありません。