これはある宮司から聞いた話
興味深い話しだった。それを綴りたい。
皆さんは茨城県の龍ケ崎市をご存じだろうか?
カッコ良い名前ランキングで全国1位の名前になった市名だ。うん、確かにカッコいい。では、皆さんはこの龍ケ崎という地名の由来をご存じだろうか?
これから綴るお話はきっと皆さんが伝えられたお話とは違うんだろうな。あくまで僕が聞いたお話であって、ただ凄く腑に落ちた話しなので皆さんにもお話ししたい。あくまでも私が聞いたお話なのでそこの所を宜しくです。
さて、龍ケ崎と言う名の由来、龍ケ崎市のホームページではこのように記されています。
「龍ケ崎」という地名の由来
●竜巻が多い土地柄だったから
昭和34年(1959年)に編纂された『龍ケ崎市史』によると、古代の龍ケ崎は毛野川(鬼怒川)・蚕飼川(小貝川)・常陸川などの河川が合流した葦原で、気象条件によっては竜巻が発生、猛威をふるうことがしばしばありました。
川の水を巻き上げて天に届く竜巻の様子が「龍の昇天」を思わせ、「龍が立つ崎」=龍ケ崎となった、という説です。
●龍が降ってきた地の先にあるから
千葉県に、龍に関するこんな言い伝えがあります。
干害で苦しむ農民の祈りに答え、沼の主である龍が女に化けて現れ、雨を降らせる約束をした。
女が立ち去ると大雨が降り出し、人々は助かる。
この七日後、巨大な龍の体が三つに裂け、天から降ってきた。
頭部・胴体・尾それぞれが落ちた場所にその後「竜角寺」(千葉県印旛郡栄町)、「竜腹寺」(千葉県印西市)、「竜尾寺」(千葉県匝瑳市)が建てられ、手厚く葬られた。
その龍の体が落ちた場所のすぐ先にある場所だから「龍ケ崎」となった、という説です。
●町の形が龍を思わせるから
江戸時代の学者・中山信名が記したとされる書物『新編常陸国誌』によると、故城の地(現在は竜ケ崎一高が建つ台地。竜ケ崎二高が建つ場所との説も)が独立してそそり立ち、北側の稲敷台地に続いているさまに由来していると書かれています。
故城の台地から稲敷台地に連なってそそり立つ形が龍を思わせるから「龍ケ崎」となった、という説です。
この記述により、江戸時代には「龍ケ崎」の地名が使われていたことが分かります。
●龍崎氏が治めていたから
龍崎氏(読みが「りゅうざき」なのか「りゅうがさき」なのかは不明)は、源頼朝の信頼を得て常陸国南郡の地頭職を任された下河辺政義(しもこうべ・まさよし)の子孫です。
龍崎氏は在地領主としてこの地方を治めた一族で、応永二年(1395年・室町中期)の文献にその名前が記されています。
鎌倉時代には「龍ケ崎」という郷は存在せず、龍崎氏が居を構えたとされる台地(現在の竜ケ崎一高の建つ台地)周辺は、羽原郷に属していました。
龍崎氏は室町時代に鎌倉幕府奉公衆を命ぜられ活躍していたことが文献から明らかになっています。
この領主の名前から「龍ケ崎」になった、という説です。
一方で、龍ケ崎を領したのでその地名によって「龍崎」と称したとの記述もあり、地名と領主名の前後関係ははっきりしていません。
どれも定かな説ではありませんとのことです。そこで僕が今まで語られなかった新説をぶっ込んでみたいと思います。いや、知っている人もいるかもしれませんね。
古の龍ケ崎は海だった。
※龍ケ崎市ホームページより引用
もう十年以上も前の話しです。利根町の宮司と龍ケ崎で食事した後、利根の神社へ帰る車の中での会話です。
「龍ケ崎の由来は千葉の方に龍がいてその地方の位置関係から龍ケ崎になっていますが違うんですよ」
「どういうこと?」
「あの大地の形をみてください。あの形が龍なんです。昔、この辺りは海でした。貝塚なども沢山あります。現在の龍ケ崎から利根町を眺めたときにあの大地が龍に見えたんです」
「確かに細長い大地に見えるね」
「あの龍の頭の部分に蛟蝄神社の奥宮があります。蛟蝄(こうもうは)はみつちとも読み龍を表すとされているんです」
「へぇ、なるほどね」
「龍の先にあるから龍ケ崎なんです。でも今の龍ケ崎市の諸説の中には利根町の龍のことがどこにも記載されていないんですよ」
この話を聞いたときになるほどな〜って腑に落ちたんですね。確かに蛟蝄神社には龍崎という地名が残っている記録がありました。
崎という漢字の意味を調べました。
①「険(けわ)しい」、「山(道)が険しい事」
②「危(あや)うい」、「安らかでないさま」
③「岸」
④「くま(曲がって入り込んだ所)」、「岸の湾曲した(弓の形に曲がった)所)」
日本のみで用いられる意味
⑤「先(さき)」
⑥「岬(みさき-海に向かって突き出ている陸の先端)」
⑦「山や丘の出っ張った先端(山の鼻)」
とでます。
先ほどの話しの細長い大地。布川の方面から立木をみるとこのようにみえます。
この細長い丘が海だった龍ケ崎からみると龍の大地だったわけです。千葉県に龍がいるより利根町に龍がいる方が地名の由来にも信憑性があると思いました。蛟蝄神社は鎮座2300年を越える北相馬では一番の格式を持つ式内社です。影響力は大きかったと思います。そして蛟蝄神社は日本最古の水の神様を祀る神社です。水神の象徴として龍が祀られることは多々あります。手水でも龍の口が多く使われていますしね。利根町は周辺が海の水の豊かな場所。そして龍…調べるほど奥深いですね。
蛟蝄神社にお参りすると様々な所で龍が散見できます。
絵馬や
石碑や
御朱印など
うーん、興味深い。
蛟蝄神社について
公式サイトにはこのように由緒が記されています。
その中で一つ、
「みつち=こうもう」の名に由来は諸説ありますが、はるか昔この辺りが海であったころの大地の形が蛟(みつち=伝説上の龍)に似ていたためといわれております。境内の石碑に龍神様の姿をご覧いただけます)。
と記されています。鎮座2300年延喜式に掲載されている古い歴史をもつ神社です。僕もこの仕事をするようになってから気がついたんですが、神社って地域の地名などに大きく影響を与えているんですよね。
今回、個人的にずっと思っていた龍ケ崎の地名に関するこの説は市の公式サイトにも載っていませんし、おそらくネットにもなかなかないんじゃないかな?でもこの話を聞いたときに一番腑に落ちる内容でした。別に今まで存在する由来を否定するわけじゃありません。諸説ありますって書いてありますからね。でもみんなにも知ってもらいたいなぁ龍は利根町にいることを。僕の中じゃ龍は利根町にいることになっています。
この記事を読んでもし龍ケ崎の方が気を悪くしたらごめんなさいね。でもこれもこの仕事をしていて行き着いた一つの知識なんだ。凄く納得出来たし筋道が通っているなと。まぁ古のことを想像するのも一つのロマンという事で。
僕もこの仕事をしていると話しがねじ曲がる瞬間に何度立ち会ったことがあるんだよ。その話違うよーってね。大体お酒の席(笑)。もしかしたら古の人もお酒を交わしながらあーじゃないこーじゃないって話しをして色んな話しが持ち上がって年数を重ねる内に様々な説となって行くのかもしれないね。
いつか守谷の地名の由来も掘り下げてみたいよね。
守谷市のサイトにはこう記されています。
守谷という地名の由来には、いくつか説せつがあります。
日本武尊やまとたけるのみことがこの地に来たとき、森林が果てしなく広がっている様子を見て、感動して「森もりなる哉かな」と言ったそうです。漢訳かんやくすると「森哉もりや」となり、地名の由来であるといわれています。また、平将門たいらのまさかどがこの地を築きずいたとき、丘おかが高く、谷が深ふかかったので、守まもるに易やすい谷たにであるということから、守まもりやすい谷たに、転てんじて「守谷」となったともいわれています。
さてさて、本当かなと疑うのは悪い癖です(笑)でも説が二つあるんだからどちらかが本当でどちらかが間違い、もしくは別の事実があるのかもしれません。
やっかいなの事実と真実は違うという所です。事実は沢山生まれますが真実は一つしかないんだからね。
では。
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