子供たちを見ていると自分がいつか来た道を見ているようです。
たしか、その道は父親も歩いていたように思います。
父親は踊りが上手いと良く聞かされましたが私は観たことがありません。
その道は内容によって細かく分かれています。
上の子は全部覚えたい、下の子は踊りだけ覚えたい。
どうやら上の子は私の歩いた道が好きなようです。
その道は舗装されていないように感じます。
いや、舗装されていなかった道だったけれど最近は違うようです。
時代の流れか?
私は子供達の練習を見に行くことはしません。
子供が親以外の大人と向き合う時間は財産です。
その道は凸凹しています。
でも下手に舗装しない方が良い。
子供のうちにつまずき方を知る事も必要です。
そして起き上がり方を覚えてもらいたい。
親が行けば舗装されてしまう気がします。
いや、親が舗装してしまうような気がします。
その道には親以外の大人が起き上がり方を教えてくれます。
笑いあり、叱りありで様々な方法で立ち上がらせてくれる道。
だから、私も妻も特に教えません。
そしてその道は最終的にはゴールの土曜日に向け
太い一本道になるわけです。
分かる人は分かる。
私と子供は上町出発で仲下経由の八坂行きでした。
幼なじみは上町の一本道の八坂行きがいたな。
あ、その道には時間の待機所みたいな場所があり、
毎回、そこに集まっては同じ話を繰り返す貴重なループの場所もあります。
笑っちゃうほどバカらしく貴重で物語が繋がっていく場所です。
分かりやすく言えばお酒飲んで同じ話を繰り返し馬鹿話をする場所です。
いつか来た道は結局は僕が来た道なのです。
それは全員が思っていることでしょうね。
あるお爺ちゃんが夕方から酔っ払って上機嫌でやって来ました。
なんか良いことあったんですか?って聞くと
孫が太鼓叩きたいって言うんだよと笑いながら話し、
じゃー太鼓買ってやんないと、と言うと
笑顔でそんなお金ないよ!
ってなことで、
お爺ちゃんの来た道を孫が見つけたようです。
真っ直ぐ伸びた円みたいなものです。
繰り返し、繋がっていく。
いつか来た道はこれからも出来るだけ凸凹の方が良い。
楽しいだけでは人は成長できないのだから。
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