原発から31kmの地。福島県久ノ浜
2011年9月。私は神道青年会が主催する福島県での建物解体ボランティアに参加しました。正直な話、妻はあまりいい顔をしませんでした。場所は福島原発から31kmの久ノ浜という場所。当時はまだ浜通りで緊急地震速報が出ているような時でした。原発も収束していなく、余震も収まってはいなく、何よりも私自身がギックリ腰の状態で歩くのも容易ではなく…
ただ、ここは私のワガママを通させてもらいました。何よりも行かなければと。当時、久ノ浜ではほとんどの方が避難をしているとのことでした。そこの諏訪神社の宮司さんが窓口になり被災地ボランティアの受け入れをしていると。ただ、場所柄(原発による立入禁止区域ギリギリの場所)もありボランティアがなかなか入らない場所と言うことでした。
前日、結城で二人の神職とお酒を飲みながら明日の作業がんばろうなんて話をしていました。そして夜が明け福島に向かいました。
福島に現地入りして
被災地入りし、先ずは諏訪神社を参拝。
驚いたのは神棚の山。それは建物が津波で流されて神棚をお祀り出来なくなった方々が神社にお返しになったとのこと。そして、一都七県から集まった若手神職がボランティアに入る前に諏訪神社の宮司さんから挨拶を頂いた。記憶に残る話はこんな感じだ。
「少し北に行くと立入制限区域になるので行かないで下さい」
「緊急地震速報がなったら速やかに浜から離れて下さい」
「震災以降、この辺りは強盗などの犯罪者が多く出没しているので気をつけて下さい。」
そして気になったのはこの話
「この辺りは放射線量が毎時0.2マイクロシーベルトと高い数値が出ております。」
…0.2マイクロシーベルト?守谷の方が高いじゃん!なので私は守谷の話を宮司さんにしてみました。
私
「私の自宅では普通に0.4とか0.5マイクロシーベルトがでます。雨樋なんかは5マイクロシーベルトですよ。」
宮司さん
「えっ?本当?0.5じゃなくて5?それはダメだよ。非難しないとダメな数値だよ。本当に出ているの?」
そうです。福島の方に放射線数値のダメ出しされました。やっぱりあの時の守谷は高かったんだなと今でも思います。
守谷が高いのは置いておいて、私達は海に向かい黙祷をし建物の解体作業を始めました。
想像以上に厳しい状況で
建物の解体作業を始める…とは言っても私達の作業は建物の中身を搬出する作業です。中身が空にならないと解体が出来ない、中身を空にする人員が不足していると言うことらしいです。早速私達は班に分かれて作業を始めました。それは厳しい風景でした。現地の方に写真を撮っても良いんですか?って伺うと是非撮って下さい。被災地の現状を伝えて下さい!と言う返事で。聞いていてつらかったな。
建物の中には津波の爪痕が残されていました。私達の身長よりも高い浸水の痕。お風呂にはまだ海水が溜まっている。もしかしてご遺体があるんじゃないか?などと重いながら畳を剥がしていく。つらいな。
昼食の時に
「昼食は一人1000円徴収します」
で、お弁当を砂浜で頂いた。頂いたお弁当は白米、ハンバーグ、漬け物、少量のパスタ。1000円でこれだけ?これは量に文句を言っているのでは無く、まだこの辺りでは食料が無いのかなって率直に思ってしまった。砂浜で食事を食べながら強い風が吹く。それは福島第一原発の方から吹いてくる風だった。
目の前の神職がこう言う。
「ご飯がジャリジャリする」
そしてもう一人の神職がこう言う。
「プルトニウムなんかには負けねーよ!」
私は風に背を向けて弁当を食べた。白米がジャリジャリするのも嫌だったし、プルトニウムには勝てないなと思ったから。
何とも言えない、言葉には言い表せないくらいの嫌な風だった。
不思議な風景
その時、私は不思議な風景を見つけた。ある神社の風景だ。
この辺りでは津波とともに火災の被害もあったという。周りの建物は全て無くなっているのに神社だけは大きな被害が無い。震災以降、ある研究者が発表した記事にこう書いてあった。津波の浸水区域を線にしてみるとそこには神社が数多く建てられているという。各地には津波にまつわる神社が数多くある。地元の伝説では津波の時には神社まで逃げろという所も数多くある。あたらめて神社には色々な願い、歴史、メッセージが込められているんだなと思いました。この福島の景色は忘れられないものになりました。
私達は最後に整列し「ありがとうございました」と宮司さんにご挨拶し福島をあとにする。結局三棟くらいだったかな?綺麗に出来たのは。帰りに福島のパーキングエリアに立ち寄ると海鮮物の提供は出来ませんとの張り紙が。福島の魚はまだまだダメな状況でした。私はそこで福島名物のままどおるをまとめ買いして帰路に就いた。
充実感なんてのはまるで無い、心が痛かったボランティア活動でした。
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