宮司は神様が選ぶのか?それとも人間が選ぶのか?
先日、宮司の地位は遺言できるのかと言う記事を投稿しました。
私は法律上、神社の代表役員宮司は責任役員会で選任されるものと考えているので神社の代表役員の地位を遺言で残すことはできない。その行為自体が神社の私物化であり適正な宗教法人の運営とは思えないと述べました。もちろん、世襲的な代表役員の変更は社家と氏子の長年にわたる信頼があって成り立つものであり、それ自体は遺言でどうのこうのでは無いと思っています。
今は削除されているようですけれど、ツイッターでこんな返事がどこかの神職さんから来まして、
「宮司は神に選ばれる」
と言う内容でした。あーなんだか達観しているというか、運命論者というか、宿命論者というか、とても視点が大きな所から観ている方なんだなと思いました。私の視点が狭いのかな?
このレスが来たときに頭の中に仕舞っておいたある出来事がパーンと思い出されました。
ある神社の祭礼に助勤に行ったときの出来事。まだ私が宮司になる前の話。その祭礼には学生が助勤に来ていました。先輩、後輩、大体8名くらいの学生がいたでしょうか?後輩が何か失敗したらしい。リーダー格の学生がその子達を正座させて説教している。
こんな感じの説教をしていました。
「俺たちは選ばれた人間なんだ。しっかりやれ」
「掃除などは用務員がやれば良いんだ。俺たちはもっと崇高な使命があるだろう」
なんて感じでね。
横で聞いていて正直ムッとしました。人様の神社なのでトラブルは御法度。でもうちの神社にいたら今の私なら帰れって言ってるだろうな。聞けばその子は社家じゃ無いらしい。神に選ばれたんじゃ無くて自分で神職になりたくて受験で合格したから神職になるための勉強してるんじゃないのかって思いました。それに清掃は神職の大切な仕事だしね。聞けば結局は神職にはならなかったそうで。彼風に言えば神に選ばれなかったのかな?
で、また出てきたこの言葉。神に選ばれる。何だろうか。私はリアリスト。現実主義者なので神に選ばれるって響きがピンとこない。宗教は一神教と多神教があり、GOD(一神教)=日本の神様(多神教)じゃ無い。どちらかというとそれって一神教的な考えを持っての運命論じゃ無いかなって思ってしまう。うん、でも難しいな。自然災害なんかがあるとこれも運命なのかなって思ってしまうし、物事に失敗すれば努力が足りないんだろうって思うし、やっぱりこの手の話はもう答えなんか出ないような気がするな。経験、年齢、色んな要素が絡み合って変わっていくものなんだろう。自分を言い聞かせるように。
色んな考え方があって良いと思う。神が選ぼうが人が選ぼうが。思想的なものだし。でもね、運命論、宿命論って人間の力じゃどうすることも出来ないって考え方なんだよね。考えが行き着くと努力って言葉が寂しくなる。努力が必ず報われるなんて言うのはありえないけれど、報われるものは全て努力をしている人間であろうと思いたい。私はまだまだ、完全な運命論や宿命論にまでは行き着けないなぁ。
私は宮司になるときに間違いなく人に選ばれたと思っている。社家で無い私は長年にわたり地域の方々や神職さん達に私の人となりを見られて、神社での仕事ぶりを見られて、それを踏まえて人間が会議を開いて私を宮司として選任するかどうか長時間にわたって討論したわけだから。社家生まれて宮司職がほぼ約束されているような環境だと運命論者の様な考え方になるのかもしれないね。この家に生まれたのは運命だなんてね。
私は現実主義。宮司は地域の方に任せたよって言ってもらってからなるものだと思ってる。俗な部分で代表役員宮司を選任してもらった後に宮司として聖なる仕事に向き合います。世間はどのように捉えているか分からないけれど、宮司と代表役員の職務は別。聖と俗の仕事をしっかり分別して物事を捉えなければならないと私は考えている。代表役員選任は俗な部分。でもそれをしなければ宮司にはなれません。その会議を人がなしているのか神がなしているかはその人の考え方、思想なのでしょう。
私は現実主義者。なので、これからブログの中で人間が決める宮司を選任する会議に臨みます。

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