18年前の初夏の夜、私は父の部屋に呼び出された。その時25歳だった。
「良弘、ちょっとこっちへ来い」
「何か用?」
「良弘、神主になってみないか?」
これが全ての始まりだった。当時、私の父は神社の役員をやっていた。守谷の八坂神社は江戸時代から100年以上無人で、大きな祭があるときだけ取手から宮司がやってくるいわゆる兼務神社だった。その宮司が跡継ぎがいないというのだ。守谷にも大木に一人宮司がいたがそちらにも跡継ぎがいない。一つの町に宮司がいないのは良くないので守谷の人間で誰かやってくれないか?とお祭りの直会で話をしていたらしい。それの席に父がいたわけだ。
父は笑顔で続ける。
「普段は仕事をしながら土日に地鎮祭とかやるんだ」
私の決断は早かった。
「やってみたい。やるよ。」
それくらいの返事だったと思う。父は少し嬉しそうな顔をしていた。
「そうか、じゃぁ宮司さんにお願いしてみないとな」
私はその場で決断をしていた。元々、氏子として祇園祭には熱心に参加していた方だ。でも神社の事なんか詳しくない。当時は25歳。神社とお寺の区別も出来ないほどの無知だ。でも、神職を志そうと思ったのは幾つかの理由があった。
一つは運命的なものを感じたから。こんな話は何万人に一人くらいの確率だろう。驚きと同時に自分の運命なのかなと思った。
もう一つは単純でお祭りが大好きだから。お祭りが仕事になるのか。
もう一つは氏子とは違う立場でお祭りに携わってみたかったから。当時は守谷駅前開発で氏子が400戸以上減りお祭りも縮小傾向にあった。山車も減り、解散する町会もあった。今思えば生意気な話だが違う立場でお祭りを守れないものかと考えたのも事実あった。若さって恐ろしい。お祭りの仕組みも分かっていないのに生意気な若造だ。でも、縮小していく祇園祭が寂しかった。
最後の一つは自分の可能性がどれだけあるか試してみたかった。この話が舞い込んできたときに祖父は大反対だった。「神主なんて食べていけないんだからやるな!」だ。父もおそらく二足のわらじで奉職するんだろうと考えていたはずだ。神社だけでやっていける神職は少ない。実際、初めて宮司に挨拶に行ったとき、宮司も資格を取ったら仕事をしなさいと言っていた。
私は父に言われ神職になろうと決断した時には他の職業には就かないと決めていた。それは誰にも言わなかった。父にも母にも宮司にも。自分への挑戦だった。やるからにはその道を究めねばと。
その後に起こる大変な出来事も知らずに。
下村良弘25歳…まだ色々なことに若すぎた。
(写真は当時の八坂神社です)
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